どくだみの花
どうしても捨てられないものって、誰にでもあると思う。
3月に大学を卒業した私は無職のままふらりと実家に帰ってきた。正確には10年ほど前に住んでいた家で、今は祖父母の家となっている。
就職を決めない私に父と母は納得がいっていないようだったが、「大丈夫だから!!!うちの大学は就職しない人も多いし!!!」で全てを封じた。
子供じみた最悪の言い訳だ。
父と母からしてみればそうだろう、なんとか22まで育て上げた娘がまともに自立しようとせず、呑気に焼き鳥屋でバイトを始めたのだから。たまったものではない。
実際のところ、私はさほど焦ってもいなかった。あと2年はこのままたのしくゆっくりやらせていただくつもりである。
私は現在、祖父母の家に居候という形をとっている。3階建ての一軒家の1階、バスルームのすぐ隣の6畳の物置同様の部屋が私にあてがわれた。
祖母はアル中で、たびたび夜中に酔っ払ってはすっころぶ。それを毎回2階の部屋まで行って助け起こしに行くのが私の主な日課である。
一人暮らしをしていた一乗寺を離れ、こちらに越してきてしばらくは寝不足の日が続いた。
けれども文句は言えない。しばらくするとそういった介護生活にも慣れた。
あるひどい寝不足の朝、ぬるくなったコロナビールの瓶を空にしてから窓を開けた。私の部屋の大きな窓を開けると、舗装されていない土のままの細い路地が足元にすぐ見える。
眼下にはどくだみの花が咲いていた。
ああ、もうそんな季節かと空を見上げる。むくんだ顔に太陽がつらい。
まどろみながら、私はそこが本当に私の家であったころのことを追憶した。
私が10歳になるまで、その部屋は父の部屋だった。平日は会社に勤め、土日はタバコをくゆらせながら安い酒を飲み、パソコンの前で競馬に勤しむ。
当時はタバコ屋さんが近くにいくつかあり、顔なじみであれば子供でもタバコを売ってくれた。
「好きな数字、3こ言ってみいや」
と、父が言った。
3連単で負けたら、その言い訳に娘をつかおうというのである。
「お 当たりや」
それから父はたまに私に数字を3つ言わせるようになった。今でもソシャゲのガチャを私にまわしてくれと言いにくるほど、彼の中で幸運のジンクスとなっているようだ。
白くて小さなどくだみの花が、路地いっぱいに咲いていた。
突然、路地から可憐な花たちが全て消えた。
繁殖力の高いどくだみたちは、父の手によって全て刈り取られてしまったのだ。
「なんでそんなことするん」
「もったいないやん」
と妹たちと抗議した数日後、大量の茶色い液体を手渡された。
「お前らがもったいないっちゅうからや」
その茶色い液体は、父自らどくだみの葉を乾燥させ、煎じて茶にしたものだった。
野生のどくだみを茶にして娘に飲ませるなよ。
今ならそう思うが、幼い私たちは仕方なくそれを飲んだ。
めちゃくちゃまずかった。
爽健美茶にどくだみが入っていることを知って以来、そのペットボトルを持てなくなった。
それ以降、どくだみの花に対し話題に触れることはなく、引っ越して転校した私たちは、あの路地をみることもなくなってしまった。
しかし、その家が自分の家であるという概念はなかなか消えなかった。
一人暮らし中に見た実家の夢は、決まってその家の1階だった。
そして10年余りがたち、またこの家へ帰ってきた。
住んでいる人間は変わってしまった。
手入れされていない路地にはまた、どくだみの花が異常なほど繁殖している。白くて小さな花をつけている。
この家には5月の下旬がよく似合う。